RUNNERS HIGH -福祉のミカタ-

そもそも差別とは何か?事例から考える

〜前回からのあらすじ〜

僕は今、「誰もがいきいきと暮らせる町を目指して」という人権に関するテーマで執筆の依頼を受けている。

いきいきと暮らせている状況を描くためにはどうしたらいいんだろうか?

そのためには

いい暮らしの反対にある、「生きづらさ」を抱えている人の声に耳を傾ける以外にない気がした。

ということで、前回はメディアマンガ、映画で扱われている「生きづらさ」を観ていった。

今回は、当事者の声を基に差別とは何か?

実際に起っている事例から人権について考えていく。

差別

日本大百科事典には、差別についてギッシリ説明されていた。

どうやら区別に含まれるものが差別であるが、定義が曖昧になっているらしい。

差異や種類別によって分けることが区別distinctionであるが、これをもっと狭く限定した概念が差別である。しかし現在、差別とはなんであるかという定義がまちまちであり、多くの場合、たとえば法律の分野においてさえも、差別と区別は使い分けられていない。この結果、反差別運動において差別という概念が恣意(しい)的に用いられ、運動が情緒に流れやすいのも無理はない。こうした混乱はしばしば極度の緊張をもたらすが、同時に、差し迫った差別の解消、社会的関心の喚起、および差別理論の解明などを促進する側面をももっている。以上を踏まえて、ここでは差別を次のように規定する。

差別とは何か

より、差別について掘り下げた内容がこちら。

かなり長い説明だったため、途中を省いて引用したい。

人間は生まれながら心身両面にわたってきわめて大きな可能性を潜在的にもっており、この可能性を自ら伸ばそうとするのは、人間の本性である。こうした可能性を実態化することによって、より有利な条件を獲得しようとする個人または集団の行為を、その個人または集団に付随する特性、または架空につくられた特性に基づいて他者が阻止する行為、これが差別である。

〜中略〜

個人の資質や能力とは無関係に、ただ女性でありユダヤ人であるというだけの理由で、生存、教育、結婚、就職、政治参加などに関する諸権利を制限ないし剥奪(はくだつ)され、男性や非ユダヤ人に比べて不利益な扱いを受けるのである。

本人の努力によってどうすることもできないことで不当な扱いを受ける。

性別や障害、国籍。

同和問題や在日コリアン差別は、まさしく生まれた場所が違うだけである。

これほど、どうしたら良いかわからない状況はない。

日本人は島国であるから差別か区別か理解しないまま、実は差別しているということが多いとのこと。

では、果たしてどのような差別があるのだろうか?

差別の事例

障がいのある方の差別に関してNHKがQ&Aで紹介していた。

バスでの乗車。

映画館などの施設への入園。

保育園の入園。

就職活動の応募。

職場での賃金。

まだまだ様々な場所で差別されている。

効率的に考えていくあまりに、その目の前の人を蔑ろにする。

それが、結果として差別につながっているケースが多いのだろう。

障害を武器に過度な主張するケースもある

しかし、時々、障がいがあることを武器に無理難題を押し付ける場合もある。

本当は自分で出来るのに頼んだり、権利を主張することもある。

それをすべて受け入れるというのも話が変わってくるし、

その過剰に要求する人が全て悪いかというとそうでもない。

また改めてこちらも紹介していくけど、医療モデルと社会モデルという考え方で

家庭や学校などでどのような扱いを受けてきたのか社会がもたらしたものかもしれない。

ここの線引が非常に難しいところかもしれない。

次回は障害者差別解消法などの法律が出された背景。

そして、その法律が公布されて何がどのように変わったか紐解いていきたい。

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