RUNNERS HIGH -福祉のミカタ-

なんでも意見として捉え、意味を求めると息苦しくなる

人生は全て学びだ!

と誰かのアドバイスを聞いて、

「おし、どんなことからも吸収してやる。」

と意気込んでいた大学4年生の頃。

何か成し遂げたいことが明確にあったわけではなく、

「成長」したいというただその一念で動いていた。

取材活動に励み、一言一句漏らさないようにメモと録音をした。

映画も以前の楽しむという目的ではなく、文化を学び製作者の意図を掴もうとしていた。

釣りに誘われても、ただぼーっとしている時間は無意味だと思い、断る。

友だちとの交流にも意味を求めたためか、離れていく人は少ならからずいた。

いま思えば、全てに意味を求めて、手帳が真っ黒なのがいいことだと信じて突き進んでいた。

途中で、息苦しくなったのだった。

その原因の一つがまさに小野ほりでいさんが指摘している

意味・意見ではないという側面を見逃していたからかもしれない。

感性が育たないまま大人になるとどうなるか?

そんなこと言ってねえ!ネットに増加する「なんでも意見だと思う人」の実態とは?

という記事、サクッと読めちゃうので、ぜひ読んで欲しい。

いまの世の中でなぜこれまでもメディアに対して批判が出てしまうのか?

という一つ答えなのかもしれない。

「これは悪意かもしれない」「これも悪意に違いない」と他人を叩くためだけに意地の悪い解釈をインストールするたびにあなたの「優しさ」「思いやり」の感性は鈍り、色褪せていく…

「問題視」しなければ「悪意」に対処できないけど、「悪意」を探そうとすればするほど人間は中毒状態になっていく・・・それは「悪意」と戦ってる人たちが教えてくれないことだけどね。

将来にとって意味のあることばかりを求めるばかりに感性が育たなくなっていくと

相手の立場になれず寛容さがなくなっていく。

生産性という実利を生み出さない人は生きていても意味がないのか?

お酒を飲み、ただただ仲間と楽しむ時間は無価値なのか?

映画は、得るものがなくても純粋に面白かっただけでいいはず。

積もる不安がいつしか誰かを傷つけ、

その批判がまた人を不安にさせるようなこと連鎖していく社会は嫌だ。

意味を汲み取り学びに活かすということは悪いことではない。

実利を求めないと今はまだ生きにくい。

ただ、実利だけでないところのつながりがや経験が生きやすさをもたらすと最近思う。

結局のところ意味を求める世界から抜け出せていないw

もっと肩の力を抜いて、気楽に生きたいな。

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