RUNNERS HIGH -福祉のミカタ-

わたしの「ふつう」と、あなたの「ふつう」はちがう。ふつうって何だ?

わたしの「ふつう」と、あなたの「ふつう」はちがう。

それをわたしたちの「ふつう」にしよう。

愛知県の人権週間の広報の言葉だ。

わかりやすくメッセージ性があっていいなって思った。

そして次の瞬間、問いが生まれた。

「ふううって何だろう?」

普通の生活をしたい。

普通の高校に入りたい。

普通の人生を送りたい。

ただ、何をもって普通と呼ぶのかは人それぞれ違うだろう。

生まれた家庭や国籍、男で生まれたか女で生まれたかなど、その人によって普通なんてものは変わる。

wikiでは

いつ、どこにでもあるような、ありふれたものであること。他と特に異なる性質を持ってはいないさま。

そう考えると共通点はあったとしてもロボットではないのだから、完全に一致する人間はいない。

人というカテゴリーという共通項をわけて、わけて、その一部の比較をしているにすぎないのだ。

きっと宇宙人からみたら、同じ生物でしかない。

12月10日は、「人権デー」

昭和23年(1948年)12月10日の国連総会で「世界人権宣言」が採択された関係で12月10日を「人権デー」といっている。

日本では、12月4日から12月10日(人権デー)までの1週間を「人権週間」として、全国的な啓発活動が行われているのだ。

ということは、人権を求める人がいたということになる。

差別というのは、人というカテゴリーのなかで異質なものを切り捨てるようなことなのだろう。

差をつけて扱うという意味を持つ言葉だが、完全にマイナスな言葉として使用されている。

悪意がなく、今この瞬間も誰かが人を傷つけているのかもしれない。

そこから劣等感が生まれる。

当たり前かもしれないけど差というのは誰かがいて、何か比較対象があって初めて生まれるものだ。

その差を埋めようとして世間に合わせれば、ふつうにはなるけど果たしてそれで自分はいられるのだろうか?

リリーのすべてを観て感じたこと

話は変わって、昨日は『リリーのすべて』という映画を観た。

今週から公開されている映画『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』の主演レディ・レッドメインが世界で最初に性転換手術を受けた女性の役を演じていた。

主人公のアイナーは自分自身は男として生まれたけど、リリーという女性としての生き方を選ぶ。

自分が自分として生きるための選択だけど、その選択は簡単なものではない。

世間にとってはふつうではないから、なかなか受け入れられない。

妻であるゲルダも複雑な心境である。

それでも性同一性障がいの人としてではなく夫、アイナーという人間に寄り添いサポートしていく。

どこかで僕たちは人を人としてではなく、男や女、障がい者そして高齢者という枠の中で接しているように感じる。

でも、アイナーは男女である前に大切な人なのだ。

アイナーにとっては女性リリーとして生きるという選択がふつうで、生きやすくて

世間でのふつうとは違ったとしてもそれがその人の人生なのであれば応援しようではないか。

僕自身、何か違う部分が見えた瞬間に、その枠の中に追いやってしまう人間だった。

色眼鏡を外すのは容易いことではなかった。

いまももしかしたら眼鏡をかけてしまっているかもしれない。

ただ、海外に出て、いまの仕事に取り組んで多様性のあることの面白さに気づいた。

自分とは違うものに触れることによってもっと人生は豊かになると気づいた。

憧れで相手になるのではなく違いを容認して敬意、尊敬をしながらも自分の生き方、道をつくっていく。

話が膨らみすぎたけど、もともと完全一致なんて有り得ないのだから

ふつうじゃなくてもよいことがふつうであることを容認しながらも時には他者を尊重していく生き方をみんなができるといいのではないだろうか?

博多駅の前で開催中のクリスマスマーケットでホットワインを飲みながらそんなことを考えていた。

img_8623

コメントを残す

サブコンテンツ

このページの先頭へ