RUNNERS HIGH -福祉のミカタ-

プロフィール

西嶋 利彦(にしじま としひこ) ※旧姓:中尾

・生年月日
1989年1月12日

福岡東区出身。

2017年5月、鳥取市民となる。

株式会社kakeru 取締役

新しい仕組み・テクノロジーのチカラを使い、
生まれや育つ環境によってその人の可能性が阻まれない世の中を目指している

2017年から鳥取県と日本財団との共同プロジェクトで
障がい者の工賃3倍プロジェクトというものをスタートさせた。
(現在の平均賃金は14,500円)

障がい者が中心の流通加工・アッセンブリー工場の仕組みの構築・運営する。

環境や仕組みを構築し、できない部分を補うことで

障がいがあっても能力を最大限に発揮し、高品質のサービスを提供できるのだ。

社名のkakeruには
人の良い部分を見極めて掛け合わせていく。
問いかける。
駆け抜ける。
人・地域・企業などの橋を架けていく。
などの想いが込められている。

現在は鳥取の用瀬という町に住んでいる。

350人の小さい町ですが、

地域での交流の機会は多く毎月祭りやスポーツ大会などの催しがある。

季節ごとの野菜をいただくこともあり、すごく豊かな気持ちになる。

※2017年5月28日更新

幼少時代

名前の由来
父親がマラソン選手の瀬古利彦選手が大好きだったから。
陸上の道に進んで欲しいと言われたことは一度もない。
だけどいつの間にか自分にとって【走る】ということはかけがえのない存在となっていた。

小さい頃からとにかく山登りが好きな少年だった。
小学2年生の時に親と喧嘩して家出先に選んだのは近くの三日月山。
近くの駄菓子屋で買ったお菓子をリュックに詰め込んで1日山で過ごしたこともある。

特に登った山は宝満山という大宰府の近くにある山。
きっと70回以上は登っている。

高校

高校は新宮高校。松林に囲まれていて海も近く大好きだった。
中学ではなかった陸上部へ入部した。走ることの楽しさに気づく。
体育祭では団長を務めるもチーム統率にとにかく苦労した。
何かをチームで作るためにはということに関して初めて考えたと思う。
当時は辛かったけど、今となってはいい思い出。(2004年入学-2007年卒業)

そして西南学院大学へ。
本当は福岡教育大学を目指していたが、見事に不合格。
第二希望だった西南学院大学人間科学部社会福祉学科に入学。

なぜ福祉??よく聞かれる質問。
それは理由は2つ。
1つは地元で年配の方が多く、
練習で朝走っている時に「私たちの介護をよろしくね」という言葉をよくかけられた福祉に進むきっかけだった。

2つめはスラムダンクで有名の井上さんが書かれた「リアル」って漫画を読んでから。
車いすバスケットの漫画なんだけど心がすごく熱くなって何度も何度も読み返してたら、
いろんな疑問がこみあげてきたんだよね。
このことについてもっと詳しく学びたいって思った。

大学

大学2年生の時は、ひたすら映画を鑑賞していった。
週に5本は鑑賞していたので年に260本は観ていることになる。
クリント・イーストウッドの作品が好きで、グラントリノとかパーフェクト・ワールドとか、あのなんとも言えない渋さがたまらん。

大学1年生の時はサークルに入って飲みまくっていたけど、目的がなくて過ぎていく日々が自分にはあわなくて
2つ掛け持ちして入っていたサークルをどちらも辞めて、陸上部一本に絞った。
大学まで陸上続けようと思っている人たちだから本当に陸上好きがいっぱいで居心地がすっごく良かった。
中でも12月の駅伝が好きだった。
大好きな陸上で誰かの役に立てるということがなによりうれしかった。
決して強い大学ではなかったけど、大きな糧となっている。

また大学4年生ではFUNという企業取材サークルに入部。
11ヶ月で40名に取材達成。
落語家や経営者や花火師など普通じゃ会えない人たちの仕事観に触れた。
目に見えなかった想いが今の世の中を創り出しているということに気づく。

この取材活動は社会人になってもFUKUOKA RUNNERSという名前でスタートさせて

西日本新聞に取り上げてもらった。

さらに4年生の時にボランティアでカンボジアへ。
きっかけはホノルルマラソンで出会った広島出身の親友。
就活の時に大阪で話していたら「カンボジアに行かない?」と誘われた。
まだホノルルとその時の大阪で2回目だったしお金もなかったけど、ワクワクが勝って行くことを決めた。
結論行って良かった。面白い仲間とも出会えたし、そこで見る景色や感じたことは今でも自分の中に残っている。

今、僕がこの障がい者雇用の仕事に携わる原点になっているかもしれない。

そして高齢者福祉ではなく障がい者の仕事創りに自分が命を注ぐのは、
「生まれた身体によって自分の人生が決まってしまうっていう世の中を変えたい」というのをいろんな研修を通じて
また人と出会って強く思ったから。(2007年入学-2011年卒業)

社会人

新卒で緑の家具の会社に入社→1年目物流→2年目久留米の店舗で勤務
その後、2年目の3/31付で退職。

ニトリ退職に至った経緯。
2012年の10月に鹿児島にいる同期に会いにいった時のこと。
ついでにいった知覧で僕と同じ歳の特攻隊員の手紙を読んだ時に
「果たして、今の僕をみて自分の命をかけて守った人たちは後悔をしないだろうか?」
ということを考えた。
その時に学生の時に、変えたいって思ったことに挑戦したいと強く思った。
反対の方が多かったけど、それでも飛び出して良かった思っている。

お世話になっている方々からもありがたいことに挑戦を後押ししていただいた。

社会人3年目、夢だった福祉の道へ。
障害者自立支援協会で勤務スタート。

そして2015年2月より株式会社カムラックに就職。

その後2017年6月より株式会社kakeruへ。
取締役として立ち上げに加わり、鳥取県の掲げている障がい者の工賃3倍を達成するためにチャレンジしていく。

自分がチャレンジしたいことに誰もが選択して取り組めるような世の中をつくりたい。

まだまだ挑戦はつづく。つづく。

Future Studio Fukuoka

2013年の夏にキャリアスクールプロジェクトというインターンの企画で取材を受ける。

そしてその後は目んたーとしてプロジェクトで大学生のサポートを実施した。
CREREA「社会の仕組みを創る働き方」

博多よかばい放浪記 株式会社福一不動産 古川隆様
頑張れ!中尾利彦君!

2013年には念願の福祉国家デンマークへ。
特に対話するということとはどのようなことなのかを実感できた。ピザの話は自分の中でわかりやすかった。
自分が目指したいと思う福祉のイメージが大きく大きく動いた。
2020年に開催されるパラリンオリンピックではスポーツだけでなく
日本の福祉の在り方も世界中に注目されるような環境にしていたいと強く思う。

2016年2月には、ねんパラピックを開催する。
ねんパラピックは、パラリンピックの競技をさらに簡易化して障害者と高齢者と若者の運動会。
誰からが遠慮するということはなく全力で楽しめる場となった。
障害なんて関係ない環境は作れると感じる。

ねんパラピックの取り組みで2回掲載されました。

J-comでも、ねんパラピックの活動は取り上げられました。

今、僕がやっていること

いろんなことをやっているから、よく「お前なにやってんのさ?」と聞かれることが多い。
でも僕の中では一貫していて全てそれが基になって行動している。
僕がやっていることは、
人や自分にとって価値のある情報に出会う「場」をつくること。
そしてまだ自分自身が途上の段階けど、人づくりに関わっている。

さらに今は障がいがあったとしても収益を得られる仕組みづくりを行っている。

具体的には事業所の品質管理と営業のプラットフォーム作りである。

またイベントプロデュース職業指導員として働いている。

◇1つは、仕組づくり。

冒頭にも書いたが、障がいのある方の給与は月に1万5千円である。
その原因としては、企業が仕事をお願いしたくてもお願いできるような質がないことである。
そこを解消するために、
一般企業のなかに交じっても遜色のない検品レベルの環境の構築とマニュアル化に取り組んでいる。
一つの事業所が上手くいっていたとしても横展開できずにいるところが多い。
ニトリという大企業にいたときに得た、仕組みの在り方をここで意識しながら、
収益をあげられる場所を作っていこうとしている。

◇2つめはイベントプロデュース。
セミナーやワークショップを通じて
誰かの人生の捉え方が良い方向へ進むためのサポートをしている。

この仕事に僕を動かしているのは高校の時の友人の死を知った時の何もすることができなかった無力な自分への憤りだった。
大学を卒業して社会人一年目でちょうど慣れてきた時にメールで訃報が入ってきた。
友人が自ら命を絶ったという目を疑いたくなるようなもの。
仕事や人間関係がうまくいかなかったのかもしれない。
僕はというと失敗三昧な日々で怒られることも多々あったけど楽しかった。
なぜなら学生の時に取材を通じて誇りを持って仕事している社会人に会って、仕事は面白いものだって教えてもらっていたから。
だから友人がもしそんな人たちにもし会うことができていれば、もっと違う人生になっていたかもしれないと思った。
人との出会いと物事の捉え方が人生を変えると僕は信じている。
だから取材活動を社会人で再び自分で始めた。と

現役の大学生を引き連れて、いろんな生き方を見てもらった。
そして取材だと人数が限られるからセミナーやワークショップに発展していった。
すぐに何かが変わるわけではないけれど、それでも1歩を踏み出せる場をつくることでちょっとは少しでも変わるんじゃないかなって思った。
ただ知らないだけで損していることは世の中には溢れているからこそ、その人にあった価値を届けるために日々物事に取り組んでいる。

その他、福祉向上委員会の役員やshifukuという勉強会の代表を務めている。

◇3つめの職業指導員では、

身体障がい者や知的障がい者の方に職業上の技術を習得させる訓練や指導を行っている。
作業指導や生活支援を通じて障がいのある人たちの社会復帰のお手伝いる。
その人の希望や適性に応じた柔軟な対応が要求される。
心掛けているのは聴くこと。
最初上手くいかなかったのは忙しさを理由に話を聴けていなかったこと。
相手の方を知り、その人にあったお仕事を創ることが日々求められている。
その中でも仲間に働き方で呼びかけていることがある。
それは今までよりも自分自身ができる1%を頑張ってみようという取り組み。
僕は「1%チャレンジ」と名付けてみんなで頑張っている。
それは大切な仲間が天国に旅だった時にしようと決めたプロジェクト。
ムードメーカーだった彼の代わりに一人が頑張るんじゃなくて、チーム一人ひとりが1%頑張れば職場は良くなると思ったから。
僕が一方的に何かを伝えるのではなくて相互に成長していける場をプロデュースしていけるように日々奮闘している。

 趣味・特技など

・座右の銘

雲外蒼天(困難を乗り越え、努力して克服すれば快い青空が望めるという意味。

・プチ自慢
大学3年生の時に「風が強く吹いている」という映画に銀幕デビュー。
といってもエキストラだけど(笑)
房総大学という架空の大学の1区としてスクリーンで10秒ほど映っていた。

・趣味
マラソン(来年サハラ砂漠走ります)・登山・映画鑑賞

取材 FUKUOKA RUNNERS代表
福岡で駆け抜けている方を取材して発信しています

・特技
福岡市内であれば終電を逃しても走って帰ることができる

◆過去マラソンの履歴

〇大学1年冬  青島太平洋マラソン
3時間7分  20キロ地点で調子に乗ってラストの5キロはウォーキングしてしまう

〇大学2年春  慶州さくらマラソン
2時間57分 初めてのサブスリー

〇大学2年冬  ホノルルマラソン
2時間50分 当時19歳だったので年代別部門で2位に

〇大学3年春  阿蘇カルデラスーパーマラソン
9時間24分 70キロ地点でランナーズハイに突入。どこまでも行けそうな気がした。

〇社会人

北九州マラソンに2回。

福岡マラソンに1回出場した。

共に3時間30分前後と失速気味なので、

これからサブスリーを切れるように努力する予定だ。

最近はリレーマラソンにハマっている。

チームで走りきるという感動は何度体験してもいいものです。

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