RUNNERS HIGH -福祉のミカタ-

これからの教育の在り方を学歴主義の戦後史から考える

教育に何ができるのかを考えるのではなく、何ができないかを考えること。

教育に何を期待すべきかではなく、何を期待してはいけないのか論じること。

こうすることで、私たちは、教育がそれ以外の世界ときりむすんでいる関係にまで、少しでも視線を延ばすことができるだろう。

苅谷 剛彦氏の『大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史』の文末に記された言葉だ。

この本は私たちが受けている教育というものの戦後以降の成り立ちを

数値を用いてアメリカやイギリスなどと比較しながら書かれている。

今回は大衆教育社会を知ったうえで、今後どのような教育社会を目指すべきなのか考えていく。

大衆教育社会とは何か?

まずは大衆教育社会について。

大衆教育社会とは、教育が量的に拡大し、

多くの人々が長期間にわたって教育を引き受け、またそう望んでいる社会である。

戦後、貧富の差によって教育を受けることができない人がいた。

その格差をなくすため親の学歴など関係なく

平等に教育を受けれるような世の中を目指したのだ。

能力主義と平等社会のジレンマ

しかし、学校での同じ授業をやっていても

当然ながら良い成績をとる人とそうでない人が生まれる。

そして良い成績がとる人が成功者として社会での地位を築くのだ。

成績の善し悪しは親の学歴や職業によって生まれていたのだ。

大げさかもしれないけれど、

勉強できる機会があっても、成績によって人の人生が左右される世の中となった。

能力別にクラスを分けるべきか

では、このような差が生まれてくるなかである問いが生まれた。

小・中学校で能力が大きく分かれてしまう場合、学力でクラスを分けるべきか?

ある地域では、中学校3年生である人は掛け算がやっとできる程度。

かたやもう一人はラサールや灘などの高校に上位で入学できるレベルである。

学校の先生からすると、

40名ほどの生徒がいるなかでどのレベルで内容を考えるのは至難の業。

ただ、その人の価値を学力だけで区別してしまうというのも違和感がある。

多様性が求められる時代で、

同じレベルの人を集めてしまうと多様性が薄れてしますのではないかという不安も残る。

学校の役割とは?教育者の役割とは何か問われている。

実社会との乖離をなくして教育を考える

ではこれからの教育において何が大切になるのだろうか?

それは大学入学がゴールではなく、その後を見据えた教育を考えること。

また冒頭の言葉でも紹介したように、教育現場にすべてを求めすぎないことである。

少し前までは学歴の高い大学を卒業していた人が優良企業に入社していた。

しかし、高学歴の大学を卒業したからといって活躍できることはイコールではなくなっている。

コミュニケーションが取れて、自発的に動ける人が求められている。

学校教育での評価されることと社会で評価されることにすれ違いが起きているのだ。

案外、大好きなスポーツに没頭していた人が社会人で活躍しているという事例もある。

標準化された知識を覚えることは、もはや価値を失いつつあるのだ。

それぞれの個性を咲かせる教育を

ではどのような教育が必要なのか?

それは工業的な社会を作るための戦後の教育ではなく

少し時間はかかっても、その人の才能は何かに目を向けて個性を伸ばす教育だ。

先人の努力で今の時代、テクノロジーが発達して、

ビデオで神授業と言われるトップクラスの先生の授業が誰でも受けられるようになってきた。

それぞれのレベルで学習を促し、考えさせて、

フォローやヤル気を上げさせること、引き出すことが役割になってくれば学歴だけではないところで互いに認め合えるようになる。

固定概念を壊して新たな教育の在り方を模索していきたいものである。

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